Masuk湊は、新しく描いた家族の絵を冷蔵庫に貼った。
ママと自分、蓮司が並んでいた。紙の端には、小さな四角が1つ、空いていた。
「これは何?」
紗月が聞くと、湊はクレヨンを探しながら答えた。
「まだ、かいてないの」
「誰を描くの?」
「わかんない」
子供は黄色と緑を、交互に持った。
「みんな、おばあちゃんとか、犬とかも、かいてたよ」
「湊が描きたい人を、描けばいいんだよ」
「パパのママ、かいてもいい?」
紗月は、すぐには答えなかった。
湊が写真で見た雅子を思い浮かべることまで、止めたくはなかった。けれど、家族の絵の1枠が、面会を認める意味になってもいけなかった。
「絵には、描いていいよ」
「あうのは?」
「それは、あとでまた話そう」
「ママが、まだいやだから?」
「うん」
湊は意外にも、それ以上聞かなかった。
四角の中に、人で
挙式の2日前、杏奈は船の管理事務所で補修区域の図面を開いた。担当者は以前の検査書類を差し出したが、それだけを受け取って帰るわけにはいかなかった。「今回、補修したのはここですよね。今日、使用できるという確認は、別に必要ではありませんか?」担当者が運営責任者を呼んだ。点検の日程が遅れたという話と、事務所から再び配置変更を求められたという話が混ざっていた。杏奈は真帆に電話し、聞いた内容を分けて説明した。誰かの妨害かと推測するより、土曜日に使用できる場所の確定が先だった。「デッキの手すり付近は、まだ立入禁止です。船内と桟橋につながる通路は、今日、別途点検するそうです」「出航する予定がないことも確認してください。私たちが使うのは、係留中の施設ですから」真帆は、デッキにスポンサーのバナーを立てる計画が残っているかも聞いた。残っていれば、挙式の運営とは別に整理する必要がある。午後、運営者から修正した使用範囲と点検結果が届いた。閉鎖するデッキの区域には印がついていた。船内と承認済みの通路だけを使い、係留を維持する条件だった。杏奈は実際に歩いた経路の写真を添えた。書類上の線と扉の位置が違った箇所は、現場で案内を直した。「使わないデッキへ、写真を撮りに出る方もいそうです」「案内板だけでなく、担当者を置きましょう。おふたりの撮影も船内の窓際に変更しておいてください」真帆が薫子に変更内容を送ると、すぐに電話が来た。「船も動かず、外にも出られないのでは、船上で結婚式をする意味がないでしょう」「船内から海を見る案を、おふたりが選ばれました。承認されていない区域は開放できません」「私がお願いした写真はどうなるんです?」「撮影担当者と、代わりの場所を確認いたします。使用できない場所で撮るとは、お約束できません」同じ説明をするために、真帆は声を張り上げなかった。通話を終えると新郎新婦にも同じ内容を送り、直接返事をもらった。***金曜午後のリハーサルには、千紘と奏真が揃って来た。窓の外を見た千紘が言った。「ここからで
次の会議で、真帆は屋外ステージの図を閉じた。代わりに船内の写真を壁に貼った。舞台、通路、楽器の控室がそれぞれ印されている。「屋外の空気を丸ごと変えるような案は使いません。おふたりが望んだのは、海の見える結婚式です。デッキで最後まで耐える演奏会ではありませんから」音響担当者が窓に向いたスピーカーの位置を直し、運営者は扉の開閉で生じる問題を説明した。杏奈が椅子に座って窓を見た。「ここだと海は見えますけど、新婦様の顔に窓枠が重なりますね」真帆は椅子を動かした。何度か位置を変え、実際の人の高さで写真を撮る。機材の数値より先に、おふたりがどこを向いて立つかを決める必要があった。追加見積もりには既存設備の使用料と音響調整費を分けて書いた。徹夜で新たな構造物を作る必要はない。ただし、人数と演奏の有無に合わせ、配置は再確定しなければならなかった。その午後、奏真が練習を終えて会社に来た。真帆は、千紘が共有を許可した準備内容だけをテーブルに置いた。「スポンサーの中継が挙式にも入ると、ご存じでしたか?」「母が手配すると言うので、詳しく見ていませんでした」「千紘さんは、やりたくないと言いづらかったそうです」奏真が携帯を伏せた。楽譜を握っていた手が、膝の上で動いた。「僕も母の事務所に助けてもらいました。今断れば、千紘まで困るんじゃないかと……」「断ることで何が起きるかは、先に確認するべきでしょう。ただ、千紘さんがすでに承諾している前提では、準備を進めないでください」真帆は空欄にしてある演奏の項目を指した。「奏真さんは、その日、何をしたいですか?」彼はしばらく紙を見た。「一緒に音楽をやりたかったんです。母が選んだ独奏曲ではなく、ふたりで練習室で弾いていた曲を」「今、手首がつらくても、ですか?」奏真は首を振った。「それは違います。弾けないなら、別の方法を考えないと」その答えを、千紘に直接伝えてほしいと真帆は頼んだ。代わりに電話して、気持ちを伝えることはしなかった。
イベント船のデッキでは、スポンサーのバナーを設置していた。杏奈が図面にない位置を指すと、事務所のスタッフは作業員に続けるよう手で示した。「鷲尾社長が決めたんです。中継画面の背景にロゴを入れないと」「ここは新郎新婦が立つ場所です。承認済みの図面では別の位置でした」真帆が着くと、杏奈は同じ説明を繰り返す代わりに、2枚の図面を並べた。事務所の書類には『祝賀演奏のステージ』。ルミエールの案では、挙式を行う場所だった。「この2つを、同じものとして扱っていたんですね」真帆は千紘に尋ねた。「この背景で中継されると、説明を受けていましたか?」千紘は図面を見てから首を振った。「宣伝用の写真を何枚か撮るだけだと思ってました。結婚式全部を放送するなんて、初めて聞きました」「協賛金は2,000万円ですよ。ロゴを外して、そのお金は誰が負担するんですか」事務所のスタッフが割って入った。真帆は、むやみにバナーを剥がせとは言わなかった。作業責任者に設置の一時停止を頼み、使用範囲を確認できる人を呼んだ。「演奏会の契約と挙式の契約が重なっています。このままでは、ご本人が同意していない映像が流れます。先に確認させてください」千紘がケースを置き、手首をさすった。杏奈が近くの椅子を持ってきた。「座ってお話しして大丈夫ですよ」「私のせいで、どんどん面倒になりますね」「違います。まだ決まっていなかったことがあっただけです」真帆は、前日に薫子が出した書類を取り出した。屋外の湿度と違約罰に関する条件は受け入れず、現場確認後に別途合意すると返答してある。そのメールをスタッフにもう一度見せた。「判を押すまで、準備もしないと?」「お互いに、違う結婚式を準備してしまわないためです」千紘の携帯が鳴った。薫子の名前を見て立ち上がりかけた彼女に、真帆が聞いた。「ご一緒したほうがいいですか? それとも、おひとりでお話ししますか?」「一緒にいてください」スピーカーを入れると、薫子はなぜバナーの作業を止めた
「一ノ瀬社長は、どちらに?」鷲尾薫子(わしお かおるこ)は名刺より先に、閉まった社長室のドアを見た。真帆は相談室へ案内し、改めて名乗った。「出張中です。事前にお伝えしたとおり、今回のご相談は私が承ります。企画2本部を担当しております、宮瀬真帆です」「私は一ノ瀬紗月さんだからお願いしたんですけど」隣にいた榊原千紘(さかきばら ちひろ)が、薫子の腕に触れた。「お義母さん、私、伺ってます。今日はお話を聞くって決めたでしょう」薫子は不満そうに腰を下ろした。クラシック公演の企画会社ソリスト・アートの社長で、新郎の鷲尾奏真(わしお そうま)の母親。千紘にとっては未来の姑であり、所属事務所の社長でもあった。千紘は椅子の横にバイオリンケースを置いた。袖口から手首のサポーターが見えたが、真帆は病名を尋ねなかった。相談中、楽器はどこに置くのがいいかを聞いた。「私の横で大丈夫です。修理のお店に寄ってきたところなので」「では、まず結婚式でぜひやりたいことから教えてください。入れたくない進行があっても構いません」差し出した質問用紙を、薫子が先に取った。「会場はお台場のイベント船を押さえました。2週間後の土曜日、招待客は200人。千紘の独奏を中心に組んでください」千紘はペンのキャップをいじっていた。真帆はもう1枚、彼女の前に置いた。「千紘さんも、同じお考えですか?」「私は……演奏時間は短めがいいです」「先月も休んだでしょう。あなたの演奏を楽しみに来る方もいるのよ」薫子がケースを指した。「借りているストラディバリウスです。評価額だけで1億円。屋外だからといって音が乱れたり、楽器を傷めたりしては困ります。温度と湿度は屋内のホールと同じように整えてください」真帆は会場図面を広げた。屋外デッキの温湿度を一定に保てるという説明はない。「屋外と船内の両方を使う案でしたね。楽器の管理条件は、担当の方に直接確認いたします」「湿度は45%で固定。少しでも外れて問題が起きたら、違約罰は
月曜の午前10時。真帆は社長室に入り、紗月の向かいへ座った。雲栖邸の精算表と採用提案書は、別のファイルに入れてあった。「アペリオには、お断りすると返事をしました」紗月が読んでいた紙を置いた。「納品の問題があったから?」「それもありますが、条件を確認するほど、実際の権限が最初の説明と違っていました。地域統括といっても、人を採るにも予算を変えるにも、本社の承認が必要でした」「残ることを選んで、後悔するかもしれないよ」「そうかもしれません。だから、こちらの条件も最後まで確認したいんです」真帆が笑った。紗月も笑い、用意していた文書を差し出した。表紙には、副社長の職務と報酬の調整案、株式15%の譲渡に関する検討事項が、別々に並んでいた。真帆は株式の数字で止まった。「これを、今日すぐに決めるわけではありませんよね?」「うん。取得の方法と費用、退職するときの扱いも、専門家に相談しないと。報告書を読むつもりで、質問して」真帆が次のページをめくった。紗月は説明しかけ、待った。最初の質問は株式ではなく、人事の権限だった。「2本部の採用には、私が面接に参加して、最終案を出すんですね?」「うん。人件費の上限も一緒に決める」「現場を持ちながら採用も精算も全部見るなら、今より滞るかもしれません。共通の支援担当は必要です」紗月はメモした。副社長という名前だけ与えて、今の仕事に責任を積み上げる立場にはしたくなかった。2人は、紗月の1本部と真帆の2本部を分けつつ、会計や資材まで別々に抱え込まないことにした。顧客の割り当てが重なった場合の連絡順も記す。「チーム同士で売上を競って、必要な人を貸さないようになるのは、困りますね」「そうだね。本部別の費用も見るけれど、会社全体の損益も一緒に見ないと」「私が、社長の判断に反対したら?」紗月のペンが止まった。「その場で言って。お客様の前なら、まず答えを保留して、私たちで整理しよう。肩書を出して終わりにはしない」「私の意見も議事録に残したいです
挙式が終わると、九条理事長が真帆を呼んだ。祝辞の途中でマイクを受け取ったが、長くは話さなかった。「本日は会場変更で、ご不便をおかけしたかと思います。ご協力いただき、ありがとうございました。準備を担当してくださった宮瀬真帆ディレクターと、スタッフの皆様にも、お礼申し上げます」拍手が起きた。前へ呼ばれた真帆は、頭を下げた。手にはまだ、次の手順が書かれた進行表を持っていた。「衣装をご用意くださった方々と、施設の皆様にも、大変お力添えいただきました。お食事は、ご案内したお席で、どうぞごゆっくりお楽しみください」杏奈が笑い、親指を立てた。隣へ戻った真帆が小声で尋ねる。「短すぎましたか?」「よかったです。料理が出てくるのに、私だって長い挨拶は聞きたくありません」2人は並んで披露宴の入口へ向かった。通りかかった花嫁が、真帆の手を握った。「さっき母が言っていました。次も、宮瀬さんにお願いしないとって」「次は、雨の降らない日だとうれしいですね」「私たちは、旅行から戻ったら写真をお送りします」花嫁は取り忘れた小さな花飾りを取り、新郎に渡した。2人が座ってから、真帆はようやく無線を少し切った。肩を回すと、首がきしむように痛かった。***屋外駐車場にいた御堂英嗣が、蓮司へ声をかけた。雨の中で出口を探していた蓮司が足を止める。「桐生社長も、いらしていたんですね。奥様の部下のイベントまで、お気にかけるとは思いませんでした」「今日は、招待されて来ました」「宮瀬さんは、いい仕事をしますね。私どもが大きなポストをご提案した理由も、おわかりでしょう」御堂に名刺を差し出され、蓮司は受け取って読んだ。だが、今後の提携の話はしなかった。「採用のお話は、ご本人となさってください。絹彩堂の納品取り消しは、別途確認しています」御堂の手がわずかに止まる。「協力会社の事情まで、すべて把握しているわけではありません」「では、ご存じの範囲でお答えいただければ。ここで争うことではありませんから、担当者からの連絡